忍者 初見良昭の教え 人生無刀捕 3.5.8

GWに初見先生の近著を読み、武神館のVHSビデオをまとめて見て、気付くことが多々あった。以下、著作から抄録したが、抄録したりない。わかったつもりで、わからない、掴みきれないところが沢山ある。また、繰り返し見る必要がある。
(まえがき)
生きている間は、死についてとくに考える必要はないと言うのが、初見流です。死んだらどうなるのかなんて、誰にもわからないわけですから、そのことについて思い悩むのは一種の病ですよ。私は無刀捕は死なないと思っている。今も高松先生は私の中で生きている。
Q1. 何かを学ぶ"弟子力"、逆に教える"師匠力"と言うものはあるのでしょうか。

A1. 気立てのいい事。心根の清い人。そして素直に学ぶこと。
武道の世界では、一子相伝といいますよね。私も若い頃はそういうものだと思っていましたが、長年弟子を指導しているうちに、一子相伝ではどうもうまくないな、と気づき、一子相伝から1刀萬法へ。1刀萬法から万物帰一に行き着いたわけです。そこからもっと進化すると「神韻武導」へ。人間の意識、自分の意識で伝えていくものじゃないってことです。自然が大事、大自然の超越いわば宇宙の意志ですよ。
高段者になったからって、偉くなってはダメです。それが自然でしょ。宗家の私は段位なんてゼロ。無刀捕ですよ。全て無です。戦わない。金はいらない。ものはいらない。併し無限の軌道が授かってくるのですね。すべて輝き黄金力に包まれてくるのです。武源の大光明なのです。
武神館で教えているのも、いって見れば生きのびる術ですから息伸導です。
頭でっかちの人は顕在意識が10分の1だということがわからないんですよ。意識に壁がある。

外国に行っても「アイ・アム・ノー・ジャパン、アイ・アム・ノー・カントリー」と言って稽古をつけてやると、向こうの人にも受け入れられて、どんどん友達になれるんです。特にアメリカなんかでも、差別社会が根強いところもあるでしょう。だから「アイ・アム・UFO」なんて言ってね。
このように絶えず虚実がつながっているということが要諦なんです。言葉にも裏表があるでしょ。大意は同じでも、ちょっとずつズレていくとか。そうした変化の美学を武道家は大事にしないと。虚実転換です。

美学といっても、備学もあれば、微学もあって、秘学もある。秘学なんかは「秘すれば花」につながるでしょう。

だから無常と夢は同じです。そこに武神(無心)をかけて無刀捕りに結ぶと、86年目に入るのです。私の話はこうして音を集めて語っていくのが特徴なんです。だから話すよりも活字にしたほうがよく伝わります。字が絵になりますからね。日本の漢字の素晴らしさはそこですよ。
日本語には漢字がありますからね。漢字があるから虚実文字も成り立つわけで漢字があるのは武道の要諦を伝えるのに大変便利です。漢字はたった1文字でも、いろいろな音を持っていますし、いろいろ聞こえてきますし、図形として見えてきます。

前回語った「神韻武導」も「武道」ではなく「武導」へと言う「虚実文字」の一例です。道と導、違いは寸のあるなし。まさに「一寸(ちょっと)」の差ですが、武道ではその一寸が生死を分かつ。
無刀捕こそ形があるかと思えばない。ないかと思えばある。玄妙至妙な技ですから。まぁ、虚実転換のひとつの極みみたいなものですよ。

高松先生はどうだったかと言うと、あの方は無刀捕の神極でしたからね。
このところ私が「無刀捕、無刀捕」と無刀捕を強調するのは無刀捕の要となる相手も自分もコントロールする力がわからないと、結局武道そのものがわかったとは言えないからなんですよ。神心神眼、肝心要の空間でのつなぎ方、結び方、要の生命力。

いくら技の稽古を積んでも、コントロールできなければ無意味なんですよ。技や形の稽古ではなく、技や形をコントロールし、技や形の存在を次々と決して無技無形の命を作る。

神仏の導きを得るためには神仏の導きがあるような、生活のリズムができるようにならないと。これもコントロール。自分をコントロールする方法を身に付けないと。そうすれば自然に良い方に向かうことができます。それは神韻武導。
武道の修行を全うしたいと言うなら、やはり修行目的を明確にすることするのが肝心でしょう。本気で武道を追求するのならやはり無刀捕を目指して欲しいですね。

無刀捕=相手の刀を徒手で捌くと思っている人も多いかもしれませんが、本当の無刀捕は手ではさばきません。空勘(くうかん)で裁くんです。刀だけでなく空間までなくしてしまうんですよ。

もっとも、無刀捕は教えてできるものでもないんでね。だから、私を真似るのではなく参考にしてもらいたいんですよ。細かく教えたりしない代わりに、全てを参考にして自分で体得体解していく。そのほうが親切と言うものです。
武道の修行を全うしたいと言うならやはり修行目的を明確にするのが肝心でしょう。本気で武道を追求するのなら、やはり無刀捕を目指してほしいですね。繰り返しになりますが無刀捕と言うのは、私の動きを見てやってみないことには、何も解りません。文章でも、写真でも、動画でも伝わらない。まさに不立文字、教外別伝と言うやつです。無刀取り=相手の刀を徒手で捌くと思っている人も多いかもしれませんが、本当の無刀捕は手では捌きません。空間で捌くんです。刀だけでなく空間までなくしてしまうんですよ。言うなれば「武空捕り」ですな。
以前アメリカのある特殊機関の秘密基地に指導要請があって出かけた時、施設内で急に彼らに銃を突き付けられて、私がどう対応するか試されたって話をしたでしょ。あの時も構えたり、ジタバタせずに、手を上げただけで、彼らに感心されたって話したけれど、あれも実は無刀捕なんだよ。そうそうそういうことが何気なくできるのが本物。
よく鎧櫃に前と書いているのを見ますね。あれは真言九字の「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」の最後の1文字からとっているんです前と言うのは前進のこと。つまりNext Oneです。要するに次の世代と言う意味です。
剣の使い方の自由度の高さに改めて感服。

Tokyo 竹内流備中伝 Takenouchi ryu Bitchuden 2021

日々の稽古や健康管理のヒントが世界のどこにいても得られるよう備忘録にしています。

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