#自分の中に毒を持て #岡本太郎 #中田敦彦 #マコなり社長 3.7.10
岡本太郎の著書。
この本を取り上げる人が多い。
琴線を揺さぶる言葉が多いからだろう。
芸術は爆発だ💥と言った、岡本太郎。
マコなり社長
中田敦彦さん
今回、抄録したページ。
『道で仏に逢えば、仏を殺せと言うが、皆さんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていてごらんなさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を挙げてください。』
『逢いっこない。逢えるはずないんです。では、何に逢うと思いますか』
『出会うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ』
僕はいつでも最低の悪条件に自分を突き落とす。そうすると逆にモリモリッとふるいたつ。自分が精神的にマイナスの面を背負い込む時こそ、自他に挑むんだ。ダメだ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのが僕の主義。
いつも言っているように、最大の敵は自分なんだ。
前に禅宗の坊さん達に「己を殺せ」といった話をしたけれど、あれは「禅」じゃなくて人生の極意なんだ。自分を殺す、そこから自分が強烈に生きるわけだ。
未熟と言うことをプラスの面に突きあげることが人間的であり、素晴らしいことだと思わなければいけない。
よく世間一般では完成された人は素晴らしいと言うが、この世の中には、完成なんてことは存在しないんだ。完成なんて事は他人が勝手にそう思うだけだ。世の中を支配している"基準"と言う、意味のない目安で他人が勝手に判断しているだけだ。
本当に生きると言う事は、いつも自分は未熟なんだと言う前提のもとに平気で生きることだ。それを忘れちゃいけないと思う。
危険なこと、辛いこと、つまり死と対面し対決する時、人間は燃え上がる。それは生きがいであり、その時沸き起こるのが幸せではなくて"歓喜"なんだ。
しかし、自分は幸福だと思っている人でも、何か自身の中に、心の底の方には、逆の面、つまり何か求めている、ほんとうに幸せじゃない部分がある。
つまり、これで幸せなんだと自分を納得させているが、一方に本当に幸せなんだろうかと言うマイナスの面を併せ持っている。人間として当然だ、外に向かって発言するときはそれをごまかして、何事もないようにニコニコしているが、もっと正直になって、恐れずに自分の内側を直視していいじゃないか。必ず心のどこかに満たされていないものがあるはずだ。
それとまともに向かい合う事はなかなかスリルのある、幸せなんかよりも、もっとキリッとした面白さだと思う。
ただ、誰でもが本来やれる、やるべきこと。例えみんながイエス、イエスと言っていても、自分が本当にノーだと思ったら、ノーと発言する事だ。もちろんそれだけで、今言ったようにこのとだされた社会、モラルの中では多いな抵抗を受ける。
純粋に強烈に行きようとすればするほど、社会の跳ね返しは強く、危機感は瞬間瞬間に鋭く、目の前に立ち現れるのだ。
いつでも「出る釘は打たれる」。
だからといって気を遣って、頭を引っ込めてしまっては、人間精神は生きない。逆に打たれなければ「打ってみろ」と己をつき出す。打たれることによって、自他を開くのである。ますます拡大して爆発する存在になるのだ。
"芸術は爆発だ"
僕の気ままに言った言葉。
全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッと開くこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発し続けるべきだ。命の本当のあり方だ。
子供の頃から私は自分の胸の奥深いところに神聖な火が燃えていると言う、動かし難い感覚を持っていた。それは誰にも冒させることのできない、絶対的な存在感なのだ。
そうだ。俺は神聖な火災を大事にして、守ろうとしている。大事にするから弱くなってしまうのだ。己自身と闘え。自分自身を突き飛ばせばいいのだ。炎はその瞬間に燃え上がり、後は無。爆発するんだ。
自分を認めさせようとか、この社会の中で自分がどういう役割を果たせるんだろうとか、いろいろ状況を考えたり、成果を計算したり、そういうことで自分を貫こうとしても、無意味な袋小路に入ってしまう。今、この瞬間。全く無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それが全てだ。
そうふっきれたとき、僕は意外にも自由になり、自分自身に手ごたえを覚えた。もちろん生活の上で、芸術活動の上で、様々な難問や危機は次々と押し寄せてくる。しかし恐れることはない。
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